練馬に綱吉の御殿があった

第9回 綱吉は練馬に御殿を持っていた〜その9

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:氷川なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

酒井雅楽頭の陰謀?

蔵三さん、きょうも読者の方から質問が来てますよ。



なんだよ。きょうは朝から二日酔いで頭が痛いんだよ。勘弁してくれよ。



たまにはお酒やめたらどうですか? え〜と、質問はこれです。「練馬生まれの練馬育ちの私ですが、練馬大根というものを見たことも食べたこともありません。練馬大根というのはどこに行ったら買えるのでしょうか。また、お勧めの調理法があったら教えて下さい」。

そんなことは区役所かJAにでも聞いてくれよ。練馬大根はね、昭和8年(1933年)にバライス病で一時全滅したけど、その後復活して契約農家の方が作ってるから、今でもJAの直売とかで手にはいるようだけど、昔からほとんど天日干しにして沢庵漬けにされるのね。だから、スーパーとかで生の大根として見ることはまずないと思うよ。

ワタシの場合、沢庵漬け自体、食べませんけどね。



今の若者は漬け物を食べなくなったからなぁ。現代は物流も冷蔵技術も発達しているから、野菜を保存食として加工する必要がなくなったけど、漬け物というのは、味噌や醤油と同様に発酵食品としての意味もあるんだ。日本人の食生活というのは、長い間玄米と発酵食によって支えられてきたわけ。

そういえば、沢庵漬けとべったら漬けの違いがイマイチわからない。沢庵が塩辛くて、べったら漬けは甘いっていうのはわかるけど…。


沢庵は一度大根を干して、水分を抜くの。べったら漬けは干さずにそのまま麹漬けにする。だからあの甘さは甘酒の甘さと同じってことさ。干さない分、水分が多いからベタベタするだろ。それでべったら漬けっていうの。沢庵は、ぬか漬けの一種だから、米ぬかに含まれる麹が徐々に甘みを出す。従ってべったら漬けほど甘くはならない。でもね、ワタシが子供の頃はサッカリンを大量に使って甘くしていたから、甘い沢庵も多かったけどね。

沢庵漬けの語源ってやっぱり沢庵和尚?



沢庵宗彭が創建した品川の東海寺では、将軍家光が寺に訪れた際に出された漬け物を気に入って命名したって伝えられているけど、確証はない。でも、一休禅師が伝えたと言われる大徳寺納豆とか、鎌倉の建長寺で作られていた精進料理「建長汁」がなまって「けんちん汁」になったのと同様に、お寺というのは大人数の食事を作るから、結構、独自の保存食や調理法が発達するケースが多いんだ。

大徳寺納豆はお土産でいただいたことがあるわ。あんまり美味しいとは思わなかったけど…。


あれはね、伏見なんかの甘口の酒には抜群に合うんだよ。あれだけで1升はいけるなぁ。でへへ。


二日酔いで頭痛いんじゃなかったんですか?



沢庵をつまみに迎え酒すりゃ治るさ。ところで、昔からおかずの沢庵は2きれって決まっているんだけど、どうしてか知ってるかい?


え〜、別に3きれでも4きれでもいいんじゃないの? どうせワタシは食べないし…。



1切れだと「人切れ」、3切れだと「身切れ」で縁起が悪いっていう、江戸独特のサムライ文化だね。鰻を背から割くのも腹切りを嫌がったからっていうからね。逆に商人文化の関西では三方で縁起がいいからって沢庵は3きれ、鰻は腹から割くことが多い。

縁起かつぎ? でも、サムライっていつでも切腹する用意ができてるとか、そういうイメージなんだけどなぁ。


それは家光の時代までさ。大阪冬の陣以来、実戦が行われたのは島原の乱ぐらいだろ。それでも寛永15年(1638)には終わっているから、正保3年(1646)生まれの綱吉世代になると、実戦経験者はほぼ皆無だ。特に綱吉は血を見るのが大嫌いで、その性格が後年の政治に影響を及ぼすんだけどね。

平和な時代になると、刀もお飾りになっちゃうのね…。



だから、綱吉の時代に起きた「赤穂浪士事件」はセンセーショナルだったわけ。戦国時代だったら小競り合い程度の話だけど、元禄時代になって、ああいう集団での殺傷事件というのはありえない話だったんだよ。実際、赤穂浪士47人の中で人を斬った経験があったのは堀部安兵衛と不破数右衛門だけだったんだ。

そうなんだ。時代劇だとたくさん人が斬られてるから、そういうものかと思ってたけど。


綱吉の時代以降を「文治政治」と呼ぶのは、そういう時代背景と綱吉自身の性格によるものなんだけど、綱吉の将軍時代については、この後に連載する「大江戸四方山話」に譲るとして、綱吉が将軍になった複雑な経緯について話を進めよう。

そう言えば、前々から疑問だったんだけど、綱吉って「さようせい様」の弟なんでしょ。本来なら子供があとを継ぐんじゃないの?


そこなんだよ。「さようせい様」こと家綱は病弱の上に40歳になっても世継ぎができなかった。では5代将軍はどうするかって言うことで、幕閣は頭を痛めていたんだ。そんな中、家綱の病状が悪化した延宝8年(1680)に、御三家も交えて後継者会議が開かれた。本来ならば家綱の異母弟である綱吉が最も近い血筋ということになる。しかし、「反綱吉派」の筆頭である酒井雅楽頭が、これに猛反対するんだ。

あれっ、綱吉にはもうひとりお兄さんがいなかったっけ?



お兄さんの甲府宰相綱重は、2年前に35歳の若さで亡くなっている。ちなみに綱吉にも世継ぎがいなかったから、結局この綱重の長男である綱豊が6代将軍家宣になるんだけどね。それはさておき、どうしても綱吉を将軍にしたくない酒井雅楽頭は、とんでもない代案を出してくるんだ。


←練馬春日町駅から徒歩3分の愛染院参道にある「練馬大根碑」(昭和15年建立)     
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