練馬に綱吉の御殿があった

第8回 綱吉は練馬に御殿を持っていた〜その8

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:氷川なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

練馬大根のルーツは綱吉?

蔵三さん、またまた読者の方からクレームが来てますよ。



わかってるよ。更新が遅いって言いたいんだろ。ワタシにもねぇ、本業というものがあるんだよ。何かと忙しいの。


本当に忙しいんですか? きょうだってお酒臭いじゃないですか。


えへへ。飲みにいくのもブン屋の仕事ですよ。ところで、前回はどこまで話したっけ?


将軍家綱の謙虚さ、自己主張の無さが災いすることになるっていう話でしたよ。


そうそう。「さようせい様」はさぁ、なかなかいいヤツなんだよ。だけどサポートしてきた保科正之も知恵伊豆も、家光の頃からの家臣だからね。高齢化してくるわけだよ。そんな中で、老中の中で一番若い酒井忠清、いわゆる酒井雅楽頭(うたのかみ)がどんどん頭角を現してくるんだな。

若いって、どのくらい若いの?



同格の老中首座だった知恵伊豆こと松平信綱とは28歳差、松平乗寿とは24歳差、阿部忠秋とは22歳差。


親子ぐらい違うのね…。



酒井氏というのは三河以来の譜代の名門だからね。忠清はエリート中のエリートだったわけ。トントン拍子に出世して、寛文6年(1666)に大老に就任すると、あとはやりたい放題、権力の中枢に登りつめる。

あれれ、誰も止められなかったの?



比較的歳の近い、それでも13歳差の保科正之がこの7年後に世を去る。この重鎮がいなくなったことで、完全に歯止めがきかなくなるんだな。

家綱公はやっぱり…。



そう。相変わらず「左様せい」だから、止められるはずもない。酒井忠清がワンマンであったというひとつの証拠として、その頃館林藩主だった綱吉が、藩の財政が逼迫しているということから幕府に石高の加増を求めるんだけど、これを忠清が却下しているんだな。

え〜、将軍の弟でしょ。却下しちゃってもいいの?



それ以来、綱吉にとって忠清は目の上のタンコブになる。さて、ここでやっと本題に入るんだけど、綱吉が下練馬村に御殿を造らせたのは寛文5年頃と言われている。目的は鷹狩りのためだ。後に「生類憐れみの令」を出す将軍が若い頃に鷹狩りというのは、ちょっと矛盾しているような気もするけど、鷹狩りというのは大名の必須科目だったからね。

でも鷹狩りって、わざわざ御殿なんか作らなくても、館林でも出来たんじゃないの?


いいところに気がついたね。でも綱吉は領主として館林にいたわけじゃなくて、殆ど江戸の神田邸にいたんだけどね。ただ、あくまで推測だけど、後に幕府の屋台骨を揺るがす綱吉の「浪費癖」が、この頃からあったとも考えられるんだ。忠清は「伊達騒動」の裁定でも有名だけど、山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』では、伊達宗勝と密約を交わして伊達藩の取り潰しを図った悪役として描かれている。確かに昔からあまり評判のいい人ではないけど、綱吉の加増要求を蹴ったのは、一概に間違った判断とも言い切れない。

っていうことは、酒井雅楽頭は綱吉を将軍候補として認めていなかったのかな。


それは間違いない。その激しい確執についてはまたあとで話すけど、綱吉と練馬の関係についてはちょっと面白いエピソードがあるんだ。館林藩主になった綱吉の官位は右馬頭で、その頃、綱吉は脚気に苦しんでいた。この時代、栄養バランスのいい玄米を食べずに白米を食べていた上流階級には脚気が多かったんだ。そこで療養のために陰陽師に占わせたら「馬」の字のつく土地で療養するのが良いという答。そこで豊嶋郡の練馬が方角もよいということで、御殿を建てて療養した。その際に、大根が脚気によいということで、尾張から種を取り寄せて、近在の百姓・大木金兵衛に作らせたら立派な大根が出来て、病気も良くなったという話。

え〜? じゃあ、練馬大根の起源は綱吉だっていうこと?



まぁ、ちょっと出来すぎの話だな。大根はビタミンCは豊富だけど、脚気治療に必要なビタミンB1はそんなに多くない。むしろ緑黄色野菜とか豆類を摂取した方がいいんだけどね。ただし、練馬大根は元禄時代に下練馬村で栽培され始めたということだから、時代的には一致する。

じゃあ、まんざら嘘とも言い切れないわけだ。



これについてはいろんな記述があるんだけど、殆どが近世になって書かれたものだから、信憑性は低い。でも、幕府の公式日誌である「柳営日次記(りゅうえいひなみき)」には、寛文5年から9年にかけて綱吉が練馬の鷹狩り場にいたという記述が数回出てくるから、大根はともかく、練馬に鷹狩り用の宿泊施設があったことだけは間違いないよ。


←大手町にある有名な「平将門の首塚」がある場所は、かつての酒井忠清の上屋敷だった場所     
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