練馬に綱吉の御殿があった

第7回 綱吉は練馬に御殿を持っていた〜その7

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:氷川なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

晴れて一国一城の主

ところで蔵三さん、読者の方からクレームが来てますよ。



なんだい、何のクレームだよ。頭がハゲてるのが気に入らないって言うならカツラでもかぶるけど…。


そうじゃなくて「綱吉と練馬御殿」という連載なのに、綱吉も練馬御殿も出てこないじゃないかという意見が一番多いみたい。


現代人はせっかちでいかんなぁ。綱吉について語ろうとしたって、いきなり「○○年に将軍綱吉は…」って教科書みたいに始めたって時代背景も何もわからないだろ。歴史ってのはつながってるんだよ。因果関係の説明が必要なの。

それにしても「話が脇道に寄りすぎじゃないか」って…。



はいはい、わかりましたよ。それじゃあ綱吉さんを登場させますよ。といってもまだ綱吉っていう名前じゃない。徳松ちゃんだ。お父さんの家光が亡くなって一番上の兄である家綱が将軍になったのが慶安4年(1651)。すぐ上の兄である長松ちゃんと一緒に、5歳の徳松ちゃんも15万石を拝領した。で、この年に起こったのが由井正雪の乱。

いくら子供だからって将軍になる人をちゃん付けで呼ぶのはどうかと思いますけど。


ああ、そうかい。それなら時計の針ををぐるぐる回して一挙に元服させてやるよ。承応2年(1653)に徳松君は元服して綱吉になる。それでもまだ7歳だ。で、11歳になった誕生日をお祝いした10日後に起こったのが、前回話した明暦の大火というわけだ。

それでやっと話が繋がってきたような…。



この時綱吉は竹橋の屋敷に住んでいたんだけど、焼け出されて神田に引っ越した。江戸の復興やら何やらが落ち着いた寛文元年(1661)に、晴れて綱吉は一国一城の主になる。所領は上野国館林藩。石高は25万石だ。

館林って、今の群馬県館林市のこと?。



館林藩の由緒について話すと長くなってまたクレームが来そうだから大まかに言うと、初代は徳川四天王の一人・榊原康政。この人には男の子がいなかったから普通は断絶なんだけど、家康は特別に孫の大須賀忠次にあとを継がせて、松平の姓まで与えるんだ。でも、寛永20年には白河に移されたから、館林藩は一時廃藩となるんだ。

やっぱり長くなりそう…。



ちょっとは我慢して聞きなさいよ。館林出身の練馬区民に失礼だろ。翌年には浜松から松平乗寿が移されて館林藩は復活する。で、次の代が子供の乗久で、この乗久が佐倉藩に移ったから綱吉が入ったというわけ。まぁ、これが館林徳川家の始まりだ。ちなみにお兄ちゃんの長松君は元服後に綱重という名前になって甲府藩を拝領。これが甲府徳川家の始まりだ。

何だかダラダラ長い家系図を見せられてるみたいだわ。



フン、キミみたいにフツーの家の子には貴種の家系というものの大切さがわからんのだ。話を続けるぞ。その当時は館林と甲府のふたつを指して「御両典」なんて呼んでたらしい。ところで「御三家」だったらキミだって知ってるだろ。綱吉が館林藩主になったのと同じ年に御三家のひとつ、水戸藩の藩主になったのが徳川光圀、水戸の黄門様だ。

やっと知ってる名前が出てきて安心したわ。きっと読者の皆さんも同じ気持ちよ。


その頃江戸では、今まで話してきたように、保科正之や松平信綱といった優秀な幕閣が、集団体制で「さようせい様」を支えていた。

えっ?何?「さようせい様」って?



幼くして将軍になった家綱は、周りがすべてサポートしてくれるから自分では何も考える必要がなかったんだな。だから、幕閣が決めたことに対して「さようせい」って言うだけだったわけ。

うらやましいな〜。ワタシもそんな立場に立ってみたいわ。



そんなことを言うと家綱がダメ君主みたいに聞こえるけど、決して人間としてダメだったわけじゃない。もちろん周囲が優秀すぎたということもあるけど、もともと病気がちで体が弱かった。だから精力的に政務を執ることができなかったんだな。

だから余計に周りの人が目立っちゃうのね。



こんなエピソードがあるんだ。家綱が将軍になって間もない頃に、江戸城本丸の天守閣に上った時、側近の者が景色を遠眼鏡(望遠鏡)で御覧になりますかと言ったところ、「私は少年ながらも将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、おそらく世人は嫌な思いをするに違いない」と言って、それを拒んだというんだな。

あ〜、何かいい話ね。家綱のファンになりそう。



だけど後々、その家綱の謙虚さ、自己主張の無さが災いすることになるんだ…。


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