練馬に綱吉の御殿があった

第4回 綱吉は練馬に御殿を持っていた〜その4

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:氷川なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

江戸のスーパー政治家「知恵伊豆」

武力革命って、ただごとじゃないわね。もしかして、もの凄いことになっちゃたの?


お若いの、そう急ぎなさんな。主要メンバーは宝蔵院流の槍の名手、丸橋忠弥に金井半兵衛、熊谷直義といった正雪の門弟たちなんだけど、計画はこうだ。まず丸橋忠弥が、小石川にある煙硝蔵に放火して、江戸を焼き打ち。騒ぎの中、急いで登城する幕閣や旗本を待ち伏せて殺害、そのまま江戸城を乗っ取る。並行して正雪が駿府・久能山で金銀を奪った後、京都で決起、大坂では金井半兵衛が決起する。そして天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、錦の御旗、つまり将軍討伐の勅命を得て、幕府側を朝敵とするというものだ。

結構大がかりな計画ね。でも、そんな事があったなんて歴史では習わなかったけど…。


そりゃそうさ。この計画はあえなく頓挫した。メンバーの一人、奥村八左衛門が事前に密告して、すべてがバレちゃった。慶安4年(1651)7月23日、急襲された丸橋忠弥が捕まった。何も知らない正雪は、予定通り7月25日駿府に到着したけど、翌朝、捕り方に宿を囲まれて自決。7月30日には金井半兵衛が大阪で自害、8月10日には丸橋忠弥がはりつけの刑となって、あっという間にジ・エンド。

あっけないのね。でも、密告でダメになるなんて、なんか計画もチームワークも甘くない?


その通りだね。確かに計画の甘さは否めないな。しかも「武力革命」と言ったけど、思想的にも封建社会の打破と言うより、幕府にお灸を据える程度のものだ。でも、チームワークに関しては正雪以下の主要幹部は一枚岩だったと思うよ。ただし、この時は相手が悪かった。

相手って誰のこと?幕府のお役人とか?



将軍家綱がまだ幼いということで、実質的な政治は幕閣、つまり幕府の重役が取り仕切っていた。そのうちの大政参与(将軍後見役)・保科正之と、「知恵伊豆」と呼ばれた老中の松平信綱、この2人が特に優秀だった。実は密告した奥村八左衛門というのは、幕府が秘かに放っていた隠密の一人だったんだな。

隠密って本当にいたの!時代劇の中の話かと思ってた。



関ヶ原からまだ50年ぐらいしか経ってないだろ。この頃はまだ各藩に不穏な動きがあったから、こういった諸藩の動きを探って、反乱を未然に防ぐ役割が大目付。その大目付・中根正盛というのが、これまた切れ者で、配下の与力を通して全国津々浦々に隠密組織を持っていたんだ。

江戸時代にそんなにスパイがいたなんて、驚きだわ。



松平信綱も中根正盛も、正雪や浪人達の動きが怪しいと、事前に察知していたんだ。だから正雪の門下に複数の配下を忍び込ませていたし、同時に幕府に批判的な大名、特に御三家の紀州藩主・徳川頼宣にも目をつけていた。

御三家って、確か将軍の親戚でしょ。それが幕府に批判的だったの?


徳川頼宣は家康の十男で、家光とは2歳違いの叔父、後の8代将軍吉宗のおじいちゃんでもある。武人としても君主としてもなかなか立派な人で、家光の武断政治、特に改易による浪人問題には心を痛めていた。まぁ、そういう意味では実に真っ当なことを言う人だったんだけど、幕府にとっては目の上のタンコブだったわけ。

正しいことを言う人って、どんな時代でも嫌われちゃうのかしらねぇ…。


でもって、正雪の遺品から、頼宣が正雪をバックアップしていたことを匂わせる書状が見つかったから一大事だ。


っていうことは、陰で二人はつながっていたんだ。



いやいや、これは後になって「偽造」だったということでカタがつくんだけど、「知恵伊豆」はこの事実をうまく利用するんだ。「謀反の疑い有り」ということで頼宣を10年間も江戸にカンズメにしちゃった。これで頼宣を担ごうと狙っていた反幕府勢力を、完全に黙らせることに成功したわけ。

うわっ、政治の世界ってやっぱり汚いのね。



たぶん書状が偽造であることはハナから見抜いていたんだろうし、正雪たちの計画も筒抜けに近かったんだろうね。だから奥村八左衛門が密告したという話も、隠密がいたなんてことを公表するわけにはいかないから、密告者がいたという体裁にしたんだと思うよ。翌年にも別木庄左衛門という浪人が老中殺害を計画するんだけど(承応の変)、これもあっという間に「知恵伊豆」に漏れちゃった。
「知恵伊豆」さん、凄いわね。どうしてそんなに事前に情報をつかめるのかしら。


この人は酒も飲まず、無趣味なマジメ人間ではあったんだけど、もともと気さくなタイプで、屋敷を訪ねてきた浪人や町人とも、身分の分け隔てなく会話を楽しんでいたらしい。だから江戸城内ばかりではなく、かなり市井の情報を知っていたようだ。要は人望が厚かったということだろうね。

だけど結局、正雪や浪人たちの思いは全然政治には届かなかったっていうことかぁ。ちょっと悲しいわね。


それがそうでもないんだ。事件を重く見た老中・阿部忠秋や大目付・中根正盛が、その後浪人を増やさないような政策に切り替えていくんだ。それまでは世継ぎのいない藩主が危篤の際に、養子を縁組みすることが禁じられていたんだけど、これを緩和したり、浪人がリクルートしやすくなるように各藩に協力を求めたりしている。これは武力を背景にした武断政治から、法律や学問を背景とした文治政治へと変わっていく最初のステップなんだな。そしてその文治政治の本格的なスタートが綱吉というわけだ。

←慶安の変は後に『花菖蒲慶安実記』や『慶安太平記』など歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなった。
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