練馬に綱吉の御殿があった

第2回 綱吉は練馬に御殿を持っていた〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:氷川なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

徳川世襲はまるで北朝鮮?

それで、綱吉が練馬に御殿を造ったいきさつなんですけど…。



綱吉が御殿を造ったって言うけど、造ったのは大工だろ。綱吉は何もしてないよ。だいたいアンタ、綱吉っていうのは名君・家光の四男だよ。ってことは家康のひ孫ってことだ。生まれた時からもう殿様街道ばく進ですよ。数えで6歳の時には15万石もらって家臣団までいたんだ。

数えで6歳っていうことは実際は5歳?5歳って言ったら「クレヨンしんちゃん」と同じじゃないですか。まだ幼稚園児なのに15万石?何か想像つかないけど。

15万石と言えば松山、小倉、姫路藩なんかと同じだよ。譜代大名並みの扱いだな。石高っていうのは田んぼの収穫量ね。1石はお米約150キロ、米俵で2.5俵。合数で言うと1000合だ。もともとは人間が1年間に食べる米の量を基準に考えたから、そのまま計算すれば1日約2.7合という計算になるけど、実際は5合ぐらい食べるから、最低1石7斗は必要だ。これを一人扶持と言う。江戸時代の収穫量はだいたい田んぼ1反あたり1〜2石と言われているんだ。ちなみに今の収穫量は1反あたり4石ぐらい。

なんだかますます想像つかなくなってきた。でも、1日5合も食べたら太りそうじゃない?


あはは。当時の一般市民はお米以外そんなに食べるものがないからねぇ。おかずって言ってもせいぜい一汁一菜といったところだ。お米さえ満足に食べられずに雑穀を食べていた貧困層もたくさんいたんだよ。いずれにしても石高制というのはなかなか難しいよ。単純に15万石だから領民を7万人以上食わせることができるというわけではない。収入は総収穫量の原則4割、つまり税率40%ってことね。15万石なら40%の6万石をお百姓さんから集める。これを「表高」というんだ。これが実質収入だな。しかも江戸時代は米と貨幣という2つの「通貨」が共存していたからね。武士は初期には支給されたお米を売ってお金に換え、後期にはお米とお金の両方で給料をいただいていたんだ。この辺は機会があったら話すとして、まぁ、綱吉お坊ちゃまの15万石を別の単位で言うならば、幕府が「いざ出兵」と号令をかけた場合、集めなければならない人数がざっと3000人。

ってことは、お侍を3000人以上抱えてるってこと?



そう。戦闘員だけで3000人だ。5歳の子供に3000人が命を預ける計算だな。父の家光が盤石の体制を築いた当時の徳川幕府には、そのぐらいの力があったということさ。

良くわからないけど、子供の頃からとんでもないお金持ちで権力者だったというのはわかるわ。


ただ、同じ年にお父さんの家光が48歳で亡くなる。跡を継いだのは綱吉の長兄、家綱だ。家光にはなかなか男児が授からなかったから、生まれたときから家綱を後継者と決めていたらしい。家光自身、弟の大納言忠長との骨肉の世継ぎ争いがあったからね。早く決めておくのが得策と思ったのかも。

あっ、忠長って知ってる。マンガの「シグルイ」に出てくるこわ〜い殿様でしょ。


キミも変なことだけは知ってるね。確かに家来や領民を虐殺したという狂乱のエピソードが多々あるけど、そういう忠長の「暗君説」は俗説で、何の根拠もないよ。むしろ周囲が仕組んだ政争に敗れた、不運の将軍候補者と言った方がいいんじゃないかな。

ふ〜ん。でも、その時綱吉が5歳でしょ。お兄さんの家綱って、将軍になれるような歳だったの?


いいところに気がついたね。まだ数えで11歳ですよ。小学校4〜5年ですよ。でもね、その歳で将軍になることで、これからもずっと徳川の世襲は続くぞって、幕府が全国の大名に宣言したとも言えるんだ。

まるで北朝鮮みたいね。でも、11歳の将軍じゃあ実際には何もできないでしょ。


その通り。そんな不安を見透かしたかのように、その年とさらに6年後に、天下を揺るがす大事件が起こるんだ。

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