練馬に綱吉の御殿があった

第10回 綱吉は練馬に御殿を持っていた〜その10

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:氷川なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

伏兵?堀田正俊の暗躍

それで、酒井雅楽頭のとんでもない代案って、何だったの?


ざっとこんな内容だ。「かつて鎌倉幕府の時代に直系が途絶えた際、天皇家から将軍を迎えたことがある。その例にならい、次期将軍には徳川家と血縁関係もある有栖川宮幸仁(ありすがわのみやゆきひと)親王をお迎えすべきでは?」

鎌倉時代にそんなことってあったの?


建保7年(1219)に3代将軍源実朝が鶴岡八幡宮で公暁によって暗殺された。実朝はまだ27歳で実子がいなかったから、河内源氏義朝流が途絶えた。そこで執権職にあった北条氏が、九条家の出身で、源氏とも血縁関係のあった藤原頼経を将軍として迎えたんだ。

それにしてもずいぶん昔の話を発掘してきたのね。


まぁ、どうしても綱吉を将軍にしたくないという雅楽頭の奇策だよね。でも、当時雅楽頭を凌ぐ実力者が幕府にいなかったから、そのまま有栖川宮で決まりかと思われたんだけど…。

結局綱吉が将軍になったわけだから、当然何かあったわけよね。


そう。突然老中の堀田正俊が反論する。「そもそも世継ぎがなければ御三家の子孫を立てよというのが神君家康公の定められた掟。どうして鎌倉の例に学ぶ必要があるのか」。

やっぱりそれが正論よねぇ。で、それが通ったっていうこと?


それが、そんなに簡単ではなかったんだよ。会議は一旦物別れになるんだけど、今度は堀田正俊が奇策に走る。雅楽頭が城内を去ったとみるや、病床の家綱のもとへ直行して、綱吉後継についての意見書を提出する。

まさかそんなことをするなんて、さすがの雅楽頭も思いつかなかったでしょうね。

堀田正俊は大奥で陰の実力者であった春日局の養子であり、家綱が竹千代と呼ばれていた頃から小姓として仕えていたからね。雅楽頭よりも家綱とは近い関係だった。そこが雅楽頭の盲点でもあった。

で、結局意見書はどうなったの?



夜になって正俊のもとに家綱から直筆の認可書が届いた。これで勝負は決まった。

家綱公は最後の最後で意地を見せたのね。


雅楽頭も、こんな形で「さようせい様」が自己主張するなんて夢にも思わなかっただろうね。正俊は早速夜のうちに、自分だけが署名した書類を持参して綱吉を深夜の江戸城に招き入れる。署名にせよ対面にせよ、大老をさしおいての単独プレーなんて異例中の異例なんだけど、それでも強引に家綱と綱吉を引き合わせると、直接瀕死の家綱から後継を託すとの言葉を引き出した。

現代でもありえないスピードじゃない? しかも深夜っていうのが凄いわね。

翌日になって家綱危篤との知らせが諸大名に伝えられて、綱吉の後継も発表された。そしてその2日後に、家綱は息を引き取る。

「さようせい様」はどんな気持ちだったのかしら…。きっと人には言えないいろんな思いがあったでしょうね。

さて、将軍になった綱吉が真っ先にやったことは何か。だいたい想像がつくよね。

酒井雅楽頭を追い出すことでしょ。なんだか政権を取ったら実力者を除け者にした、どっかの政党みたいだけど…。

その通り。将軍就任から4カ月で雅楽頭を更迭した上に、息子の忠挙まで自宅待機処分、加えて雅楽頭が比較的軽い処分で裁定した越後のお家騒動も、自ら再審して厳しい裁定を下すという徹底ぶりだ。

雅楽頭の人格全否定っていう感じね。よほど恨んでいたんでしょうね。

政治の実務も最高権力も、大老から将軍の手に戻ったということを、天下万民に示す必要があったんじゃないかな。全てを一瞬のうちに失った酒井雅楽頭は、翌年隠居して、そのまま亡くなった。

それも何かキナ臭い話よね。裏がありそう。


そうなんだ。あまりに急すぎるからね。綱吉も自殺ではなかったのかと疑い始める。それで「墓を掘り起こして検死せよ」と命令したから、困った酒井家や縁戚の藤堂高久がいろんな言い訳でこれを拒否した。それで、綱吉も大名連中もますます怪しむことになったわけ。でも、綱吉の就任に関する因縁めいた話はこれだけじゃない。綱吉を将軍にした立役者である堀田正俊も、4年後に江戸城内で若年寄の稲葉正休(まさやす)に刺殺される。しかも、その原因はいまだにわかっていないんだ。

その話も聞きたいけど、とりあえず今回で連載は終わっちゃうのよね。


元禄バブルと赤穂事件、天和の治に生類憐れみの令、桂昌院と側用人等々、良きにつけ悪しきにつけ、綱吉の時代というのはとにかく面白い。だからその辺は新連載の「大江戸四方山話」で改めて取り上げることにするよ。お楽しみにね。
<おわり>


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