練馬に綱吉の御殿があった

第1回 綱吉は練馬に御殿を持っていた〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:氷川なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

消えた田柄川と田柄川緑道

こんにちは、大江戸さん。文化部の氷川です。今度都内版で「綱吉は練馬に御殿を持っていた」っていう企画を始めるんですけど「そういう企画なら、まずは大江戸さんに聞いてこい」ってウチのデスクが言うもんですから、整理部の方へお邪魔したっていうワケです。それにしても、大江戸さんって変わった名前ですね。なんかの芸人みたい。

それは江戸屋猫八のことか?失礼なヤツだな。キミだって売れない演歌歌手みたいな名前じゃないか。ワタシはこう見えても忙しいんだよ。キミと付き合ってる時間なんかないの。さぁ、帰った、帰った。

まぁ、そう言わないで。タダでお話を聞こうなんて思ってませんよ。デスクが「蔵三さんの好みだから探してこい」って言われて、これを苦労して見つけてきたんですよ。

おおっ、これは「香露」の大吟醸じゃないの!熊本酒造研究所、協会9号酵母発祥の蔵だよ。いやぁ、これが飲みたかったんだよ。キミも生意気なだけかと思ったら、結構いいとこあるじゃないの。ところで、何を聞きたいんだっけ?

「綱吉は練馬に御殿を持っていた」っていうテーマです。練馬区立北町小学校の田柄川緑道側にある記念碑(写真左)をヒントに、世間ではあまり知られていない将軍綱吉と練馬の関係について取り上げてみようという企画です。

ははぁ。あの古銭みたいなヤツね。あれは平成15年の11月16日、江戸開府400年を記念して建てられたんだよ。たいして話題にはならなかったし、近所の人もあんまり良く知らないんじゃないかなぁ。だいたい練馬なんてのは江戸時代には何もないただの田舎だったんだよ。


より大きな地図で 徳川綱吉御殿跡之碑 を表示

何もない田舎って、練馬を馬鹿にしてませんか?江戸時代の話ならともかく、今は都会ですよ。

あのねぇ、その古銭みたいな碑が置いてある田柄川緑道ね、あれはもともと農業用水だったの。そもそも「田柄」という地名は日照りが続くと田んぼが「空」になるということからついたんだ。それで、干ばつに苦しむお百姓さんたちが明治の初頭に苦労してお金を出し合い、玉川上水の田無分水から水を引いてきたんだよ。それが最終的に、もともとあった田柄川と合流して田柄用水になったわけ。その後は農業用水も天然の河川も一緒に「田柄川」って呼ぶようになって、昭和40年には荒川水系の一級河川になったんだよ。

へぇ〜。そんなストーリーがあったんだ。でも今は田柄川なんて、どこにもないじゃないですか。

戦後、宅地化が進んで農業用水としての意味を持たなくなって、もっぱら排水路として使われていたんだけど、大雨なんかが降るとたびたび水害も発生したから、下水道のように地下河川にしようということになった。この工事は昭和46年に始まって昭和56年には水路が完全に姿を消した。

ってことは、今でも緑道の下には川が流れているんだ。


そう。そういうのを暗渠(あんきょ)化っていうの。だから、古くから練馬に住んでいる人にとって田柄川というのは懐かしい名前なんじゃないかな。要するに、練馬っていうのは明治まではのどかな農村地帯。大正に入って、関東大震災で家をなくした人がどんどん入ってくるようになって宅地化が始まって、終戦後の住宅難でさらに宅地化が進んだというわけ。

ふ〜ん。でも、今回のテーマは「綱吉は練馬に御殿を持っていた」っていうことだから、きっと昔は練馬に立派な御殿があったっていうことでしょ。大江戸さんが言うみたいなド田舎とはちょっと違うんじゃないの?

別にワタシは「ド田舎」とは言ってないでしょ。まぁ、良く言えば江戸の「食糧基地」だな。有名な練馬大根を始めとして、芋やゴボウなど主に根菜だね。これを江戸市中に供給していたわけだ。じゃあ、なんで綱吉がわざわざそんなひなびた土地に御殿を造ったかということなんだけど、それはこの大吟醸を一杯やってから、ということで…。

えぇっ、まだ仕事中じゃないですかぁ…。


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